2024年4月4日木曜日

なんのためにこんなことをと思う今日この頃に

教行信証の音読化を進めています。聖典の読み上げ録音は、これが三回目です。一度目、二度目は、まだまだ、拙い感じがして、教行信証だけでもと思って、取り掛かっています。

今朝は、p199まで進みました。

1頁分のテキストを調整し、録音し、動画にしてYouTubeにアップロード。次に、ホームページの該当頁に再生用リンクを埋め込み、FTPでアップロード、という手順です。大分手際よくやれるようになりました。

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 でも、ふと、なんのためにこんなことをやっているんだろうと思います。

法然上人が賢しい「文沙汰」をお嫌いになったというお話が末燈抄にでてきますね。

(末燈抄より)故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとて笑ませたまいしをみまいらせ候いき。文沙汰して、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。 

こんな余計なことをして、法然上人が顔をしかめていらっしゃるかもしれません。

しかしまた、口伝抄には、こんな逸話が出てきます。

(口伝抄より) 本尊・聖教は、衆生利益の方便なれば、親鸞がむつびをすてて、他の門室にいるというとも、わたくしに自専すべからず。如来の教法は、総じて流通物なればなり。しかるに、親鸞が名字ののりたるを、法師にくければ袈裟さえの風情に、いといおもうによりて、たとい、かの聖教を山野にすつ、というとも、そのところの有情群類、かの聖教にすくわれて、ことごとくその益をうべし。しからば衆生利益の本懐、そのとき満足すべし。凡夫の執するところの財宝のごとくに、とりかえすという義、あるべからざるなり。よくよくこころうべし」とおおせありき。

親鸞聖人とたもとをわかちて去って行く門人があり、他の門人たちが、与えてあるお聖教を取り戻すように憤っていると、聖人がそれを許さなかったというお話です。

私自身、体を壊してから、お寺にお話を聞きに行くことができなくなりました。連絡をくれていた人たちも、間遠になって、独りぼっちがつくづく身に染みます。もう、何かを読むくらいしかできませんが、活字の本を読むのは困難です。真宗聖典の音読があればどんなにいいでしょう。そう思って、進めています。

この音読頁をネット上においておけば、いつか、どなたか、わたしと同じように、切実に必要としている人のもとに届くかもしれない。そう思って続けています。 親鸞聖人なら、わかってくださると信じてやっています。

 今朝見たら、 YouTubeのチャンネルj登録者数が一人増えて、七人になっていました。どんな人がぽちったくれんでしょう。励まされます。(といっても、そのうち二つは自分と母のアカウントですけどね)

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一歩ずつ進もう。

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